一挙公開!幕末のかわら版

幕末を揺るがした大事件を「かわら版」から振り返ります。
幕末には、黒船来航、桜田門外の変、安政の大地震など、さまざまな事件や災害が起こりました。
当時、こうしたニュースはどのように精華町域の人々に伝わったのでしょうか。
町内に残された「かわら版」や関連資料をもとに探ります。

※こちらの展示は、平成26(2014)年に実施した展示会のPDFによる再録です。

はじめに

精華町では、昭和58年度に町史編纂事業を開始して以来、多くの古文書を調査してきました。特に江戸時代に旗本領の代官を務めた森島清右衛門家に伝わる古文書は1万5339点の多数に及び、町史編纂事業終了後も教育委員会が調査を継続しています。
今回はその調査成果の公開として、森島家文書の幕末期のかわら版を中心に、関連資料を加えて展示します。幕末には地震・津波・大火などの災害が相次ぎ、ペリーの来航によって外交の大変革を迫られるなど、まさに激動の時代でした。特に災害関係のかわら版は、東日本大震災を経験した今日、過去の災害から防災の教訓を学ぶ資料としても注目されているところであり、参考としていただけましたら幸いです。
最後になりましたが、今回の展示にご協力いただきました所蔵者および関係者の皆様方に心より御礼申し上げます。

かわら版(瓦版)

江戸時代、事件・天災・珍談奇聞など庶民の関心事を速報で報じた木版の印刷物。瓦版は今日の新聞の原型と位置づけられるでしょう。
森島家文書には幕末期の瓦版がまとまって残されています。森島家に残された瓦版は、後代のコレクションではなく、発行当時に必要に応じて購入もしくは贈呈によって入手したものが大半とみられます。それは森島家文書に残された書状のなかに、瓦版の入手方法に関する記事が散見されることから分かります。記事と瓦版がセットで保管されてきたことから、情報伝達のツールとして瓦版がどのように活用されていたのか、具体的に分かる貴重な事例です。瓦版自体の記事だけでなく、このような点にも注目していただければ幸いです。

1. 江戸の大火

「火事と喧嘩(けんか)は江戸の華」といわれるほど、江戸(現在の東京)は火災が多い都市でした。江戸から遠く離れた精華町域ですが、江戸の火災は「対岸の火事」ではありませんでした。
それは、江戸に居住する旗本を領主とする村が多かったためです。ひとたび、江戸で領主の屋敷が類焼すれば、屋敷を再建するための高額の御用金を村側が負担することとなりました。その金額は数百両(現在の数千万円)に及ぶこともあり、江戸の火災は、精華町域の村の財政にも大きな影響を与えかねない災害でした。
また、幕末になると江戸は世界有数の大都市に発展し、日本各地から江戸に出て武家や商家で働く人々も大勢いました。祝園村で旗本天野氏領の代官を勤めた森島清右衛門も、領主の御用のため、しばしば数ヶ月(最大1年11か月)に及ぶ長期の江戸出張を務めています。
これらの理由から、各地で江戸の火災に関する速報が求められ、地方のニーズにこたえるものとして、被害状況を地図に示した瓦版がたくさん発行されました。ここに展示した火災の瓦版も手紙に同封するなどして、江戸から祝園村に送られてきたものが多くあります。江戸から各地への情報伝達という視点から瓦版をみてみましょう。

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1.江戸の大火 ※クリックするとPDFファイルが開きます。

2. 黒船来航

嘉永6(1853)年6月、アメリカ合衆国のペリーが艦隊を率い、日本との国交と通商を求める大統領の書翰を携え、浦賀沖(現在の神奈川県)にやってきました。ペリーは巨大な蒸気船(黒船)で武力をちらつかし、大統領の書翰を日本(徳川幕府)に受理させました。
その後、ペリーはいったん日本を離れますが、翌年の嘉永7(1854)年1月に日本側の回答を求めて、再び江戸湾にやってきました。幕府は戦争を回避するためにはこれまでの対外政策(いわゆる「鎖国」)を改め、一定の「開国」が必要だと判断し、横浜でアメリカ側と交渉を開始しました。その結果、同年3月、日米和親条約を調印し、下田(静岡県)・函館(北海道)の開港などが決定されました。
こうしたペリーの来航は、日本国内のあらゆる人々に大きな衝撃を与えました。当時の精華町域も、黒船来航の影響と決して無縁ではなく、多様な関係資料が残されています。

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2-1. 黒船来航 2-2. 黒船来航 ※クリックするとPDFファイルが開きます。

3. 安政の大地震と大津波

ペリーが来航して対外関係が大きく揺らいだ時期、日本国内は相次いで大地震に見舞われました。嘉永7年は度重なる大地震を受け、11月27日に「安政」と改元されました。そのため同年を含め、この時期の地震を総称して「安政の大地震」とも呼びます。

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3-1. 安政の大地震と大津波 3-2. 安政の大地震と大津波 3-3. 安政の大地震と大津波
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4. 桜田門外の変

安政5(1858)年6月、幕府は大老井伊(いい)直弼(なおすけ)(彦根藩主)が主導して、孝明天皇の許可を得ないまま日米修好通商条約に調印しました。当時はこの条約問題と将軍の跡継ぎ問題をめぐり大名の間で意見が対立していましたが、直弼は反対勢力を厳罰に処して異論を封じました。世に言う「安政の大獄」です。
こうした強硬姿勢に対して反発が広がり、安政7(1860=万延元)年3月3日、特に弾圧の激しかった水戸藩の浪士たちが中心となって、江戸城に登城する直弼を桜田門外で襲撃し殺害しました。
幕府首脳の死は、翌月(閏3月)末になってようやく公表されました。江戸の大事件はどのように精華町域に伝えられたのでしょうか。

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4. 桜田門外の変
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5. 庶民の文化

ここまで幕末期に発生した大事件にまつわる瓦版や史料をみてきましたが、最後に、庶民文化に関する番付を紹介しましょう。
江戸時代後期になると、江戸や京都といった大都市はもちろん、地域社会でも祭礼・文芸・芸能など庶民の文化が発達しました。広く多くの人々に情報を伝達するために、文化面でも多様な刷物が発行されました。

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5. 庶民の文化
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補遺 異国降伏祈祷札

嘉永7(1854)年の異国降伏祈祷札が、下狛の鞍岡神社にも保存されていることが分かりました。
平成11(1999)年に執り行われた鞍岡神社本殿の屋根葺き替えの際、本殿内部に棟札6枚とともに異国降伏祈祷札1枚の納められていることが、宮司の太田氏によって確認されました。今回の展示会開催を契機に、太田氏から情報をご教示いただきましたので、展示会終了後に調査を実施しました。従来知られていなかった重要資料のため、展示解説の〈補遺〉という形で、概要を紹介します。

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補遺 異国降伏祈祷札
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目録

展示資料一覧は下記をご覧ください。
一挙公開!幕末のかわら版 展示資料目録
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