古代の郷と寺院

南山城では、7世紀になると古墳は造られなくなり、代わって仏教寺院が建立されはじめました。木津川右岸の高麗寺跡こまでら(木津川市山城町上狛)は、7世紀初頭に創建された南山城最古の寺院跡で、日本最古の寺院である飛鳥寺(奈良県明日香町)と同笵の瓦が出土しました。また、7世紀後半に整備された塔・金堂・講堂の基壇が残されています。一方、左岸に位置する里廃寺さとはいじ(精華町下狛)は、7世紀後半から8世紀後半にかけて存在した古代寺院で、瓦や基壇が発見されました。

『倭名類聚抄』によれば、古代の相楽郡には7つの郷があり、そのうち下狛郷・祝園郷が現在の精華町域に含まれます。下狛郷は大狛郷(木津川市山城町上狛)と共に朝鮮半島北部の高句麗からの渡来系氏族である狛氏の拠点で、高麗寺や里廃寺も狛氏が建立した寺院と位置づけられます。また、祝園は、古くはハフリソノ(波布理曽能・羽振苑)と呼ばれ、『古事記』・『日本書紀』に収められたタケハニヤスヒコの伝説に登場する土地です。

里廃寺 基壇

里廃寺 基壇

 

 

平城京の建設を支えた地域

和銅3年(710年)、都が平城京に遷されると、近隣の精華町域は大きな影響を受けました。平城京の建設に必要な多量の瓦を生産するために、平城山丘陵に多数の国営瓦工場群が設置されました。精華町域でも乾谷瓦窯跡・得所瓦窯跡(柘榴)を確認しています。

また、都と地方を結ぶ幹線道路である山陰道と山陽道が精華町内を貫通していたと想定されており(遺構は未発見)、木津川水運と共に、平城京と諸国を結ぶ交通・輸送の大動脈の一角を占めていました。

国から人びとへ田を与える班田収受制を実施するため、土地を碁盤の目状に区割りした条里制の整備が進められた影響で、町域には条里制に由来する土地の区画や小字名が今もよく残されています。

 

 

奈良時代の豪族と建物跡

奈良時代の町域を代表する遺跡として、畑ノ前遺跡(植田・精華台)・樋ノ口遺跡(山田・木津川市相楽)が挙げられます。畑ノ前遺跡は、総数23棟の掘立柱建物や、高さ3.5m、直径1.1mにおよぶ巨大なヒノキの一木を使用した深さ約7mの井戸が出土し、豪族の居館と考えられています。樋ノ口遺跡は、多量の二彩・三彩陶器、緑釉単彩陶器が出土し、その性格をめぐって離宮・寺院等の諸説が提示されています。

なお、孝謙(称徳)天皇に仕え厚い信任を得た女官の稲蜂間宿禰仲村女いなはちまのすくねなかむらめは、精華町北稲八間・南稲八妻付近を本拠とした豪族の出身とみられ、畑ノ前遺跡や樋ノ口遺跡と稲蜂間氏が関連する可能性もあります。

畑ノ前遺跡 井筒

畑ノ前遺跡出土井筒