太閤検地

安土桃山時代の精華町域の状況は、資料に乏しく不明な点が多いのですが、天正11年(1583年)の時点で、羽柴(豊臣)秀吉の台所蔵入地(直轄地)が南稲八妻・祝園・柘榴にありました。天正17年(1589年)に南山城地域で太閤検地が行われました。町域では山田村の検地帳が残されています。

過去の特集展示はこちら!→山田川流域の古絵図と古文書

 

江戸時代の村

江戸時代の精華町域には、11(下狛村を4か村として数えると14)の村がありましたが、大半は1つの村を複数の領主が支配していました。朝廷(禁裏・仙洞・公家)・寺社・武家(幕府・大名・旗本)と様々で、石高が小規模な領主が中心でした。旗本領は、領地に在住する有力者を代官役に任命して実務を担わせました。旗本天野領は祝園村の森島氏、旗本大岡領は山田村の福井氏が代官を務めていました。

複数の領主が支配する村も、氏神祭祀や水利・山野利用は、村としての一体性を保ち、それぞれ村掟を定める等、村の自治が展開されました。

天保三年正月の東畑村の村掟の写真

天保三年(1832年)東畑村「差入申一札事」

 

 

 

 

 

 

[翻刻]

差入申一札之事

一、此度、諸勝負事第一、其外不埒ヶ間敷儀、村方一統相慎可申候様、御役人中様ゟ被為 仰付、依之連印ヲ以一統承知仕、其上心得違者有之候ハヽ、如何様之御仕方被成下候共、親共ハ不及申ニ、兄弟親類迄一言之違背申間敷候、為念指入一札連印仍而如件、

天保三年

辰正月日

(以下は翻刻省略)

[意訳]

様々な勝負ごとや、そのほかの不届きなことについては、村の皆は慎むように、お役人様から仰せつけられました。このため、押印を連ねて、皆承知いたしました。その上で心得違いをするものがありましたら、どのような仕打ちをなされましても、親については申すに及ばず、兄弟親類につきましても、一言のさからいも申しません。念のため、文書に押印の上で提出いたします。

 

生業と山・川

江戸時代の町域の基幹産業は農業で、米を中心に、綿・菜種等の商品作物も栽培されました。農業や生活に必要な用水、肥料になる草木、燃料にする薪炭等を確保するために、しばしば利害が重なる近隣の村どうしで激しい衝突が起こりました。煤谷山の境界をめぐる相楽郡菱田・下狛・北稲八間3か村と綴喜郡普賢寺郷(京田辺市)間の山論や、煤谷川からの取水を菱田・下狛両村が争った水論は、その代表的な事例です。

江戸時代の綿作について、もっと詳しく→コラム:古文書にみる近世精華町域の綿作

 

江戸時代初期に堤防が築かれた木津川は、支流からの土砂流入等の影響を受け、しばしば堤防が決壊しました。正徳2年(1712年)の大洪水は、地域における江戸時代最大の木津川水害で、特に祝園村では大きな被害が生じ、数年後には同村のうち南村が集団移転しました。江戸時代の村人たちは、山や川の自然がもたらす恵みを受け、災いに向き合って暮らしてきたのです。

 

現代の木津川

現代の木津川

大正時代末期に撮影された木津川の写真、雑魚取の船と男性5名

大正末の木津川

 

村人の信仰と学び

村の氏神社は、神主や宮座によって運営され、様々な神事・祭礼が執り行われました。一方で神仏習合のため、氏神社の境内に宮寺が置かれ、社僧も神事に関与していました。

村人の葬儀や先祖供養を行う檀那寺は、融通念仏宗(河内国佐太来迎寺末)の寺院が多く、村人の信仰を支えました。南山城三十三所は、相楽・綴喜両郡に設定された観音霊場で、札所寺院である禅福寺(祝園)等に巡礼額が奉納されています。

江戸時代後期、町域に寺子屋が10か所開設されていました。子供たちは、師匠(北稲八間の山中氏、祝園村の森島氏、山田村の黒崎氏ら)のもとで読み書きを学びました。