精華町の誕生
第二次世界大戦後、昭和22年(1947年)に川西・山田荘・相楽3か村は中学校組合を設置し、精華中学校を開校しました。明治~大正時代に存在した精華高等小学校と同じ範囲の村々で新制中学校が新設され、精華という校名も受け継がれたのです。
開校後、精華中学校の校区をもとにして3か村の合併協議が進められましたが、最終的に川西・山田荘の2か村による合併が決定し、昭和26年(1951年)に精華村が誕生しました。昭和30年(1955年)には、町制を施行し精華町となりました。

精華町役場と丸山(昭和40年代)
学研都市の建設と人口増加
昭和30年(1955年)に町制施行した後、日本社会は高度経済成長期を迎えました。以降、精華町は京都・大阪・奈良のベッドタウン化が進み、住宅建設と都市開発が進展しました。その最たるものが関西文化学術研究都市(学研都市)の建設です。
学研都市の建設は、昭和53年(1978年)12月の「関西学術研究都市調査懇談会」による提言を端緒として、3府県・関西経済界等が構想を練り、昭和62年(1987年)6月9日に「関西文化学術研究都市建設促進法」が公布・施行され、正式に国家的プロジェクトとなりました。また、これに先立ち、昭和60年(1985年)10月12日に、住宅・都市整備公団(現在の都市再生機構)による「祝園特定土地区画整理事業」の起工式が挙行され、光台地区の造成工事が始まりました。現在ではこの起工式の日が、学研都市全体の建設着工の日と位置付けられています。以後、学研都市の建設が本格化し、様々な研究・文化施設が開設されるとともに、大規模な新興住宅地区が誕生し、精華町は学研都市の中心地として急速に発展しました。
昭和40~60年代には、中久保田・祝園南・北ノ堂・馬渕等、東部の平野部を中心に中小規模の住宅開発が進められ、昭和60年代以降、南部・西部の丘陵で大型の宅地開発が行われました。昭和63年(1988年)に桜が丘、平成4年(1992年)に光台、平成11年(1999年)に精華台の各地区が誕生すると、町の人口は急増しました。町制を施行した昭和30年(1955年)に9,452人であった町の人口は、半世紀後の平成17年(2005年)には34,237人と3.6倍に伸びています。
人口増加に伴い、小・中学校も増設されました。町制施行時に小学校が2校(川西・山田荘)、中学校が1校(精華)でしたが、現在は小学校が5校(精北・川西・精華台・東光・山田荘)、中学校が3校(精華・精華西・精華南)に増えています。近年は鉄道駅前の土地区画整理事業が進められ、平成19年(2007年)に祝園西、令和2年(2020年)に狛田の両地区が誕生しています。

祝園特定土地区画整理事業起工式
交通網の整備
開発に伴い、交通網の整備も進みました。鉄道は、平成元年(1989年)にJR学研都市線(片町線)が電化、平成12年(2000年)に近鉄新祝園駅への急行停車が実現し、町へのアクセスが一層便利になりました。また、町内外を結ぶ広域幹線道路として、昭和45年度(1970年度)に国道163号の供用が開始され、平成3~5年(1991~93年)に京奈和自動車道の町域部分(田辺西~山田川I.C.)が開通しました。

京奈和自動車道開通

近鉄新祝園駅急行停車
学研都市開発の現在
学研都市の開発は、バブル経済の崩壊とその後の経済停滞の影響等もあり、必ずしも平坦な道のりではありませんでしたが、研究開発型産業施設の立地促進等の努力を重ねてきました。現在は学研狛田地区の開発が進行中です。
