行政・教育制度の変遷

明治維新によって、精華町域の村々(11か村)は京都府の管轄に置かれました。明治22年(1889年)、町村制の施行を受け、狛田村・稲田村・祝園村・山田荘村の4か村となりました。その後、昭和6年(1931年)には、狛田・稲田・祝園の3か村が合併し川西村が誕生しました。

この間、近代教育の整備も進められました。明治5年(1872年)8月、近代学校制度に関する最初の法令である「学制」が全国に公布されますが、これに先立ち同年7月、北稲八間小学校と吐師小学校(木津川市)が開校しました。その後、行政区画・教育制度の度重なる改変を受け、学校の統廃合が繰り返されましたが、明治19年(1886年)に小学校令が制定され、明治22年(1889年)に町村制が施行されると、1つの村に1つの尋常小学校(明治33年(1900年)から義務教育)を設置する体制が定着しました。また、明治25年(1892年)、狛田・稲田・祝園・山田荘・相楽(木津川市)の5か村は、精華高等小学校を設立し共同運営を行いました(大正9年(1920年)に分離解散)。

昭和7年の川西村役場の写真

川西村役場(昭和7年)

精華高等小学校

精華高等小学校正門

鉄道の開通と都市近郊農業

地域の近代化に大きな役割を果たしたのが鉄道の開通です。明治31年(1898年)、関西鉄道の四条畷~木津(現在のJR学研都市線〔片町線〕)が開通し、祝園駅が開業しました。祝園駅は、周辺で栽培された農作物を都市へ輸送する集荷駅としての役割を担いました。昭和27年(1952年)には、下狛駅が開業しました。また、昭和3年(1928年)に、奈良電気鉄道(現在の近鉄京都線)が開通し、狛田・新祝園駅・山田川駅が開業しました。

近世以来、精華町域の農業の中心は稲作でしたが、明治時代になると副業として製茶や養蚕が盛んに行われました。また、明治後期以降、都市向けの青果(ソラマメ・エンドウ・スイカ)の栽培が試みられ、都市近郊農業への模索を進めます。

祝園駅構内の貨物列車の写真

祝園駅構内の貨物列車

 

川西村農産物販売斡旋所とスイカ

川西村農産物販売斡旋所

 

 

 

 

 

 

 

 

 

祝園弾薬庫の設置

第二次世界大戦がはじまる昭和16年(1941年)に、町域西部丘陵一帯に陸軍の弾薬庫(大阪陸軍兵器補給廠祝園填薬所。通称は祝園部隊)が建設されました。昭和20年(1945年)の敗戦によって弾薬庫は連合国最高司令官総司令部(GHQ)に接収され、昭和33年(1958年)に日本政府へ返還されて、昭和35年(1960年)から自衛隊が使用しています。祝園弾薬庫をめぐって、用地買収に伴い農地を失ったり作業に携わったりした住民も多く、地域社会に大きな影響を及ぼしました。