さまざまな荘園

平安時代から室町時代にかけて、貴族・寺社の私有地である荘園が精華町域にも存在しました。

祝園荘は藤原氏・春日社・平等院、菅井荘は興福寺と春日社、稲八妻荘(稲間荘)は平安~鎌倉時代には石清水八幡宮・藤原氏・春日社、室町時代には室町幕府の支配を受けました。

室町時代中期(15世紀後半)になると、祝園荘や菅井荘は地元武士の侵略を受け、荘園領主による支配が困難となりました。

 

山城国一揆

応仁元年(1467年)、京都に始まった応仁・文明の乱は、将軍の後継問題と、将軍の補佐役である管領を務める斯波家・畠山家の家督争いなどが複雑に絡まった大規模な戦乱です。南山城も、文明2年(1470年)に西軍方に属する大内氏が進出して以降、長く戦場となりました。下狛の大北氏をはじめ南山城の国人(武士)の多くは、東軍である細川勝元の被官でしたが、山田の中黒氏のように西軍方の斯波義廉の被官となった者もありました。最終的に西軍が圧勝し、大北氏の居城であった大北城を奪い本拠としました。大北城には西軍方である大和国の古市氏が大内氏と共に入っていましたが、文明9年(1477年)に両氏の軍は大北城を破棄して帰国し、応仁・文明の乱は終結しました。

その後も乱の影響による戦乱は続きました。乱の一因であった畠山家の内紛は収まらず、文明15年(1483年)、畠山義就軍(西軍)が再び南山城に入り、畠山政長方(東軍)との戦闘が再発しました。やがて戦況は膠着状態に陥り、地域社会が長年の戦乱で疲弊するなか、文明17年(1485年)、南山城の国人衆は東西両軍にかかわらず一致団結し折衝を重ね、両畠山軍の国外退去を実現させました。その背景には「土民」(農民)の意向が反映されたとも考えられています。こうして成立した山城国一揆は「惣国」と称し「掟法」を定め、7年9か月ほどの間、国人衆の合議に基づく自治政治を実行しました。

新殿神社 十三重塔

国一揆成立期間中の建立である新殿神社十三重塔

下狛大北城跡と考えられる中世の堀

下狛大北城跡と考えられる中世の堀

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、明応2年(1493年)、守護の支配を受け入れて国一揆は解体しました。守護支配に反対する一部の国人は稲屋妻城に立て籠りましたが、守護側に攻撃され滅ぼされました。

山城国一揆が成立した中世後期は、農民が経済的成長を遂げ、惣村という自治組織に結集した時代でした。北稲八間の武内神社本殿の文明4年(1472年)棟札には、惣村自治を主導した人びとを指す「老名おとな」の文言がみられます。

 

武内神社について、もっと詳しく→文化財紹介:武内神社「本殿」

新殿神社について、もっと詳しく→文化財紹介:新殿神社「十三重塔」

 

戦国時代の動向

山城国一揆の解体後、戦国時代における南山城の様相は断片的にしか分かりませんが、国一揆解体後も南山城では国人衆の緩やかなつながりが続いていたことが確認されます。

また、東寺や興福寺の古文書からは、下狛大北氏の動向の一端を知ることができます。このほか、町内全域に中世城館にちなむ小字地名が多数存在します。