日常の食卓

箱膳
箱膳
箱膳
昔のふだんの食事で使った膳で、ひとりひとりが自分専用(せんよう)のものを使いました。フタを裏返(うらがえ)して箱の上にのせ、食器(しょっき)をおいて食事をしました。食べ終えると、食器は箱のなか〔引き出し〕に仕舞(しま)いました。

京都府立山城郷土資料館所蔵

所蔵者のお話
この箱膳は、木津川市山城町上狛の方が旧蔵されていました。昭和5年生まれの方が、幼稚園まで使っていた子ども用の箱膳です。
体験者の声(1)
私が小さい頃(昭和10年代)は箱膳を使いました。箱膳はあまり洗いませんでした。
体験者の声(2)
私が精華町内にお嫁に来た頃(昭和34年)は、箱膳を使っていましたが、食事の後、茶碗を洗うとお姑さんに叱られました。一日一回洗うだけでした。当時、水道はまだ引かれていませんでした。
体験者の声(1)
私は(現在の生駒市北部の村で、昭和20年代前半)幼稚園から小学校に上るくらいまで、姉妹で箱膳を使っていました。家族も箱膳を使っていたかどうかは覚えていません。箱膳を止めた後は、ちゃぶ台を使いました。
昭和40年に精華町内に嫁いできましたが、箱膳ではありませんでした。
展示してある引き出し付きの箱膳は、上等の箱膳です。この展示を見ていた別の人も「これは上等な箱膳だ」と話していました。

ちゃぶ台

ちゃぶ台の裏
ちゃぶ台
昭和前期によく使われた家庭用の食事テーブルです。ちゃぶ台をかこんだ食事は、一家だんらんのシンボルでした。このちゃぶ台のようにまん中に穴(あな)が開くタイプは、七輪(しちりん)をはめこみ、鍋料理(なべりょうり)〔かしわのすきやきなど〕をすることができました。足はおりたたみ式になっています。

整理番号:259 採集地:下狛舟

体験者の声 戦前の大阪商家の食卓
私の実家は大阪で製麺所(うどん・そば)を経営しており、戦前は数名の職人が住み込みで働いていました。職人たちは箱膳で食事をしていました。食事が終わると、水屋(食器棚)の下段に箱膳を片付けました。
家族は箱膳ではなく、ちゃぶ台で食事をしました。5人兄弟だったので、写真(No.259)よりも大きいちゃぶ台を使っていました。
製麺所の朝は早く、午前3時くらいから仕事をしていました。機械で麺を作っていましたが、家の中はいつもバタバタしていました。戦後になると、住み込みの職人は2人くらいに減りました。
大晦日は年越しそばの注文で、晩まで大忙しでした。そば屋からは「そばがなくなった」と追加の注文が舞い込んできました。
住み込みの職人には、年に1度新しい下着を渡しました。

コラム:家族の食事スタイル 箱膳からちゃぶ台へ