井手の水車 「拾遺都名所図会」(国立国会図書館蔵)
綿実と井手の水車
江戸時代、実綿(みわた)から綿繰りをして取り出した種〔綿実:めんじつ〕は、搾油器を使って油をしぼり出し、明かりを灯すための灯し油(とぼしあぶら)などに利用されました。綿実油(白油)は、菜種油(水油)とともに当時の代表的な灯し油でした。
江戸末期の文久元(1861)年、南山城(京都府南部)には23人の絞り油屋がありました(『精華町史』本文篇515頁)。絞り油屋には、圧搾前に臼で綿実や菜種を搗く作業を人力または水車でおこなう2種類がありました。綴喜郡井手村(現在の井手町)には4人の絞り油屋があり、玉川の水流を生かして水車を使用していました。その光景は、江戸時代のガイドブックである「拾遺都名所図会」にも描かれています(写真上)。
精華町内には絞り油屋がなかったので、近隣の井手村の絞り油屋を利用していました。祝園村の森島家には、井手村の絞り油屋に綿実を売却し、代わりに油を購入したことを示す文書が残されています。
覚 一綿実弐拾弐貫五 受取 一油五升 渡し 夫金兵衛 右之通御座候、以上 二月七日 祝園 油弥 森じま様
① 綿実・油につき覚
江戸時代/個人蔵
玉水(井手)の水車絞り油屋である油屋弥市郎が、祝園村の森嶋家から綿実22貫500目(約84㎏)を受け取り、代わりに森嶋家へ油(綿実油か)5升を渡した記録です。
③の文書から、綿実は銀22匁5厘で買い取られたことが分かります。
尚々、綿実直段繰屋同直段申請候間 左様御承知可被下候 預御書面忝拝見仕、如仰 甚寒之砌御座候得共 弥御安康之由珍重之 御儀ニ奉存候、然者 今日綿実正ニ 弐拾九貫七 夫金兵衛受取 代 処へ 油五升 渡シ 水油五勺 渡シ 〆 右之通御座候間、御入手 可被下候、まつ者右 御返事迄如斯御座候、 早々以上 卯 十二月八日
油屋 弥市郎 新屋敷 森嶋清右衛門様 ゟ玉水 油五升 水油五勺添
② 油屋弥市郎書状
江戸時代/個人蔵
玉水(井手)の水車絞り油屋である油屋弥市郎が、祝園村の森嶋清右衛門に宛てた書状です。
森嶋から油屋に綿実29貫700目(約111㎏)が持ち込まれ、代わりに油屋から森嶋に油(綿実油か)5升と水油(菜種油)5勺が渡されました。
③の文書から、綿実の買い取り価格は銀29匁7分であったことが分かります。
冒頭の追伸〔尚々書:なおなおがき〕に、「綿実は、繰屋(綿繰りをおこなう商人)と同じ値段で買い取ります」とあり、油屋が森嶋家のような個人のほか、繰屋のような商人からも綿実を買い集めていたことがうかがわれます。
なお、②の文書は、コラム「古文書にみる近世精華町域の綿作」の①「祝園村菜種・綿実・灯し油につき覚」よりは後の時期の文書と考えられます。祝園村では18世紀後半ころには南都(奈良)で灯し油を買っていたのが、時代がくだり近隣の井手村で購入するように変化したのではないかと思われます。
覚 卯十二月八日 百匁がへ 一弐拾九匁七分 実正ミ弐拾九貫七 一弐拾弐匁五分 油五升 四匁五分替渡 一四分 水油五勺 渡 〆弐拾弐匁九分 差引六匁八分過上 辰二月七日 札百匁がへ 一弐拾弐匁五厘 実弐拾弐貫五 夫金兵衛 一弐拾弐匁五分 油五升 夫同人 〆四分五厘 不足 惣差引六匁三分五厘 過上相成 此油壱升四合壱勺 渡 右之通宜敷御入手可被下候、 直段之処茂相働キ申置候事 辰三月廿一日 油弥 祝園新屋敷 森嶋清右衛門様
③ 油屋弥市郎綿実・油代銀勘定覚
江戸時代/個人蔵
玉水(井手)の水車絞り油屋である油屋弥市郎が、祝園村の森嶋清右衛門と取引した綿実や油の代銀を清算した文書です。森嶋は卯年12月(②)と辰年2月(①)の2度にわたって、綿実52貫200目(約196㎏)を代銀51匁7分5厘で油屋に売り、反対に油屋から油(綿実油か)1斗と水油(菜種油)5勺を代銀45匁4分で買っています。油屋は辰年3月に差額を清算し、過剰銀6匁3分5厘分の油1升4合1勺を森嶋に渡しました。
このように、江戸時代、綿の栽培がさかんだった南山城(京都府南部)では、糸にする繰綿だけではなく、種(綿実)も地域の絞り油屋に売却し、灯し油などに利用されました。
また、綿実や菜種のしぼりカスは油粕(あぶらかす)といい、農作物の肥料として使われました。森嶋家には、井手の絞り油屋から油粕を購入したときの文書も残されています。生産された綿が、副産物もふくめて無駄なく循環する形で利用されていたことが分かります。
行灯(あんどん)・灯明皿(とうみょうざら)
行灯は、部屋の明かりを灯す道具で、外側に和紙が張られています。内側には燃料の油を入れる灯明皿をおきます。菜種(なたね)・綿実(めんじつ)・魚などからしぼった油をこの皿に注ぎ、藺草(いぐさ)などから作った芯(しん)に火をつけ、明かりを灯しました。
整理番号:1041行灯、1055灯明皿