せいか舎コラム

古文書にみる近世精華町域の綿作

南山城の綿作

江戸時代から明治時代にかけて、南山城(京都府南部)では綿がさかんに栽培されていました。特に祝園(精華町)や上狛(木津川市)などは主要な産地でした。当時の地元の言い回しでは、裏地に綿を入れた冬用の着物が破れて中から綿が飛び出した状態を、綿が「爆(は)ぜる」の言葉にかけて「吐師浜(はぜはま)」といったそうです(松田弥三郎「綿作奮闘六十年」)。木津川の吐師浜(木津川市)周辺に、祝園や上狛など綿の主要産地があったことにちなんだ言葉のしゃれです。

江戸時代の南山城における綿作の生産量は、残された史料が断片的で、全体像はよく分かりませんが、畑だけではなく田でも綿を栽培する村が多くありました。北稲八間村では田地の4割に綿を植え付けていた時期もありました。しかし、18世紀中ごろから綿の価格下落や肥料代の高騰などの影響を受けて、田地の綿作は減少していきました。

明治前期には、下狛村で8200斤、祝園村で1万050斤の綿を産出しており(「相楽郡村誌」)、依然として重要な農産物でした。

しかし、その後、外国産綿花の輸入が増加したこともあり、南山城における綿作はすたれていきました。

第二次世界大戦頃までは、自家用として細々と綿を栽培している家もあったようです。


 

    覚
丑寅両年分    相楽郡
一菜種之義者     祝薗村
    当村ニ作り不申候

右同断
一綿実之義
    当村ニくり屋無御座
    実綿ニ而上狛村江売付申候
右同断
一燈油之義
    南都ニ而買調申候

 右之通相違無御座候、以上
          祝薗村
 卯三月       庄や
            吉右衛門

 

① 祝園村菜種・綿実・灯し油につき覚

江戸時代/個人蔵

18世紀後半ころの祝園村における菜種や綿の生産・販売状況について記した文書です。

この文書によれば、当時、祝園村では菜種を栽培していませんでした。また、綿については、収穫した綿花から綿実(種)を取り出す綿繰りの作業をおこなう「繰り屋」が村内にいないので、種が入った実綿のまま上狛村(木津川市)へ売却していると記されています。

一方、宝暦12(1762)年には、上狛村に御免繰綿問屋を設立しようとする動きがあり、久世・綴喜・相楽三郡の村々(精華町域では祝園・下狛・稲八妻〔北稲八間〕の3か村)が反対しています。反対の理由は、これまで百姓たちは実綿ではなく繰綿に加工して各地へ直接売買してきたが、御免繰綿問屋ができれば売買の差し支えになるというものでした(『山城町史』本文編688~689頁、『木津町史』史料篇Ⅱ352~354頁)。この主張からは、当時、南山城一帯で綿の生産・流通が盛んであったことがうかがえます。最終的に幕府(京都町奉行)から御免繰綿問屋の設置が認められたかどうかは不明ですが、祝園村に関する文書①の内容からすると問屋が設置された可能性もあり、今後の検討が望まれます。

なお、菜種や綿実からしぼり出した油は、行灯(あんどん)などに火を灯す灯し油(とぼしあぶら)として用いられました。当時の祝園村では、灯し油を奈良で購入したということです。


 

    覚
 丑寅両年ハ  相楽郡 
一菜種之義者        祝薗村 
    当村ニ作り不申候 
    木綿作田畑凡 
丑年分 
  高三百六拾石 
    此反別三拾町 
寅年木綿作田畑凡 
一高弐百四拾石 
    此反別弐拾町 
    木綿作田畑凡 
卯年 
一高弐百四拾石 
    此反別弐拾町 
    是ハ未取込不申候ニ付大積りニ御座候 
右之通ニ御座候尤年月過候得者 
委細之相知不申候以上
 卯四月        祝薗村庄や
                     吉右衛門
② 祝園村菜種・木綿作につき覚

江戸時代/個人蔵

18世紀後半ころの祝園村における菜種や綿の生産状況について記した文書です。

この文書によれば、当時の祝園村では、木綿は田と畑の両方で栽培され、石高240~360石、面積20~30町の田畑に植えられていました。これが仮に祝園村のうち旗本天野氏領の数値であったとすると、天野氏領の石高385石余の6~9割におよび、綿作の割合が非常に高かったことがうかがわれます。


 

    乍恐書付以奉願上候
           御知行所祝薗村
一当畑綿作高百七石四斗七升壱合八勺、当年者
生立も宜敷相見へ申候所、去ル八月廿四日雨風以
之外■ニ相当り、其上先月下■旬ゟ当月
上旬迄雨降続、俄ニ病付玉葉共落申候、以外成
不作ニ而当惑仕候、其上米俄高直ニ罷成、右畑綿
作之御年貢難相立迷惑仕候、尤田綿作共同事ニ
御座候へ共、田綿作之義ハ御願不申候、右之段之
被為 聞召分、御慈悲之上畑綿作之分御用捨
米被為 仰付被下候様ニ奉願上候、以上
   宝暦五年       庄や吉右衛門
     亥九月廿四日   年寄五兵衛
              同七郎兵衛
              同十兵衛
              同庄八
              同理右衛門
               同市兵衛
              同権四郎
              同加兵衛
              同又市
              同茂兵衛
           頭百性平兵衛
              同新兵衛
    森嶋清右衛門様
③ 祝園村畑綿作につき願書

宝暦5(1755)年/個人蔵

宝暦5(1755)年、祝園村旗本天野氏領では、畑地のうち107石余で綿が栽培されていました。天野氏領の全畑地の石高は不明ですが、田畑・屋敷を合わせた石高は385石余ですから、畑地の綿作がさかんだったことが分かります。この年は雨が降り続き、綿に病気が発生して不作となったので、畑の綿作にかかる年貢を減免してほしいと村役人から代官森嶋氏に願い出ました。このほか田地でも綿が栽培され(石高不明)不作でしたが、こちらの減免は願い出ませんでした。


 

   乍恐御願奉申上候口上書

一御知行所稲八間村之儀者、往古ゟ雨水場所ニ而
 御座候所、溜池等茂数ヶ所御座候得共、元来
 当村者綿所ニ而、田地四歩通り茂綿仕附候処、
 三拾年已来ゟ綿下直ニ相成、且亦綿作者油糟・
 ほしかニ而無御座候而者作不被上候、右こやし者
 殊之外高直ニ相成候故、綿作仕附候而者一向
 御高ニ引合不申、勿論近来諸方ニ種弘り沢山ニ
 相成候故、自下直ニ相成、困窮之百性其後ゟ者
 得不仕稲作計り尓相成、依之養水不足仕、
 往古ゟ干地場所ニ而湧出と申者一滴茂無御座、
 溜池計り之所ニ而御座候而、水不足仕甚難儀仕候故、
 去ル安永七戌年山西鈴谷川之水を養水不足
 之節取候積り普請仕懸り申候所、隣在下狛村
   (後 略)
④ 字丸山池普請仕用帳

天明4(1784)年/個人蔵

天明4(1784)年に北稲八間村が、字丸山にため池を作ることを願い出た計画書です。

このなかで、同村の綿作の状況について触れられています。

従来、北稲八間村は綿作がさかんで、田地の4割で綿を栽培していましたが、30年前(宝暦年間)から綿の価格が下落する一方、綿の肥料である油かすや干鰯などの価格が上昇し、採算がとれなくなってきたので、近年は田地で稲作だけをおこなうようになったと記されています。


 

    乍恐以書付奉願上候

一先達而御注進申上候通、当年者綿作はゑ
 出甚宜敷御座候処、五月八日ゟ雨降出シ六月十日迄
 降続、永々之しけニ而以之外悪敷相成、其上
 六月十一日ゟ七月廿六日迄照続、下地しけニ而生立
 不申、綿作又永々之干魃ニ而以之外生立不申
 候ニ付、当年も大不作仕、殊ニこやし抔例年ハ
 油粕十玉ニ付代銀三十五六匁位ニ而相調申候処、
 当年者右之油粕十玉ニ付七拾弐三匁位ニ而 
 相調、当年之こやし者前代未聞之直段ニ而
 相調申候処、右之綿作不作仕、今年ニ而四ヶ年之
 綿不作打■続一向下地続、一向惣百姓相続
 不仕、当惑仕罷有候間、何卒御見分被為
 成下候而、御慈悲ニ御用捨被 下置候様奉願
 上候、以上
  天明四年辰九月
              庄屋
              年寄
              組頭不残
              外ニ両人
  森嶋清右衛門様
⑤ 祝園村綿作につき願書

天明4(1784)年/個人蔵

天明4(1784)年、祝園村では4年連続で綿が不作となり、村から代官に立会検査と年貢減免を願い出ました。綿の肥料として用いる油粕の価格は、例年10玉につき銀35~36匁くらいでしたが、同年は銀72~73匁と通常の2倍以上に高騰しました。これは、④北稲八間村の「字丸山池普請仕用帳」と同じ年の出来事で、両村とも肥料代の急騰に苦しんでいる状況が分かります。こののち、19世紀に入ると、祝園村でも田地に対する綿の作付け高が減少しています。

 

寛政弐年

 田綿御高帳

戌九月      祝薗村
上田壱反歩     高壱石四斗       九郎兵衛

上田五畝七歩    高六斗七升八合     忠助

   〆五石七斗六升九合

      田内垣外 并 ゆやノはさま

上田五畝拾四歩   高七斗六升六合     平兵衛

上田壱反三畝廿歩  高壱石七斗弐升四合七勺 十左衛門
           内五升三合    荒

上田六畝拾歩    高八斗八升七合     伊兵衛
           内壱升九合弐勺  荒

上田弐畝三歩    高弐斗九升弐合     同人
           内六合四勺    荒

上田壱畝五歩    高壱斗六升壱合九勺   吉右衛門
           内八升五合    荒

上田五畝拾六歩   高七斗七升六合七夕   同人
           内弐斗七升三合四勺 荒
⑥ 田綿御高帳

寛政2(1790)年/個人蔵

江戸時代、祝園村は6人の領主が入り組んで支配していましたが、そのうちの1人旗本天野氏の所領で綿を栽培している田地を書き上げた帳面です。

寛政2(1790)年には、全部で226筆、184石余の田地に綿が植えられていました。この帳面には田地の綿作しか記載がありませんが、旗本天野氏領の石高は、田畑・屋敷あわせて合計385石余なので、高い割合だといえるでしょう。

年代は異なりますが、③宝暦5(1755)年の願書にみえる畑地の綿作地の107石と単純に合算すると、田畑の綿作地の合計は292石余に及び、祝園村天野氏領では、綿の栽培地が非常に多かったことがうかがわれます。

なお、この後、19世紀に入ると、祝園村天野氏領では、田綿の作付け高が減少しています。

⑥寛政2(1790)年「田綿御高帳」に記載された、綿を栽培している田を含む小字に色を付けて地図に示してみると、祝園村全域におよんでいることが分かります(小字名は江戸時代のもの)。一見すると木津川沿いの東南地域では、綿作を行っていないようにも見えますが、この地域は畑が多いエリアなので、田ではなく畑で綿を育てていた可能性があります。


 

    乍恐奉願上候口上書

一当年畑綿作之儀、夏已来順気宜敷生立、聊申分
 無御座候処、七月下旬ゟ日々白雨相続、綿取入最中
 一日も快晴無之、度々大雨ニ而綿玉多腐落、其余皆々
 発切悪敷存外之凶作ニ付、実ニ失肥銀候程之仕合
 百姓一統甚難渋之趣段々歎願仕出候、依之乍恐畑
 御見分之上御用捨御下ケ被為成下候様偏ニ奉願上候、
 何卒厚以御憐愍右御聞済被成下候ハヽ一同深
 難有仕合可奉存候、以上


               庄屋市兵衛(印)
  文久弐壬戌年       年寄喜三兵衛(印)
     閏八月       組頭忠助(印)
               同 平兵衛(印)
               百姓惣代市次郎(印)

  森嶋清右衛門様
  森嶋楢吉様
⑦ 祝園村畑綿作につき願書

文久2(1862)年/個人蔵

文久2(1862)年、祝園村では、長雨の影響により綿が凶作となり、代官に年貢の減免を願い出ました。

綿は商品作物として高い利益をもたらしましたが、多雨など気候不順に弱く、しばしば不作に見舞われました。祝園村には綿の不作にともなって年貢の減免を求めた願書が数多く残されています。


 

大坂行 一繰綿壱箇慥ニ受取申候
       淀迄舟ちん五拾文受取申候
    十二月二日
  祝園村清右衛門様

 

(印)
 「荷物運送
    城州
  問屋喜右衛門
  吐師    」

⑧ 繰綿送り状

江戸時代/個人蔵

祝園村の森嶋氏が、吐師浜(木津川市)の問屋に繰綿(くりわた)を渡し、舟で大坂まで輸送したときの送り状です。詳細は不明ですが、江戸時代に祝園村の綿が、木津川・淀川の舟運を使って大坂に運ばれていたことが分かります。


 

戌正月  菅井村
      紺屋宇助

 染 物 通

新屋敷むら
 森嶌清右衛門様
⑨ 染物通

江戸時代/個人蔵

江戸時代、祝園村の南村(新屋敷村)の森嶋氏が、菅井村の紺屋宇助に染物を注文した記録です。

紺屋(こうや・こんや)は、藍などの染料を使って糸や布を色染めする職人です。江戸時代から明治時代ころには、村々に紺屋がおり、染物を請け負っていました。