養蚕家の帳簿
菅井の松元家には、明治30年代の養蚕に関する帳面が残されており、同家の桑の葉や繭の生産量などを知ることができます。
明治35(1902)年の「桑葉摘入貫数日記」によれば、4月28日に4匁(15g)、29日に12匁(45g)、5月1日に16匁(60g)、合計32匁(120g)の幼い蚕を掃き立てています。
「掃き立て」とは、種紙に張り付いている蚕種(卵)から生まれた幼い蚕を、羽毛のほうきで掃いて、蚕箔などの上に落とす作業のことで、実質的に蚕を飼いはじめることをいいます。
現在では一般的に蚕種1万粒(0.5箱)は5.85g(1.56匁)とされるので(大日本蚕糸会蚕業技術研究所『養蚕』90頁)、この数値で計算すると、同年の松元家では約25万5000頭の蚕を掃き立てたことになります。
この年、松元家では6月4日までの38日間に合計796貫410匁(約2987㎏。検算では806貫410匁=約3024㎏)の桑の葉を摘み取っています。「浜」・「柳」(柳原)・「二本木」・「南辻」など木津川沿いの土地を中心に桑の葉を摘み取っており、木津川の川原沿いに桑畑が多かったことがうかがわれます。この傾向は、明治40年代の地形図をみても明らかです。また、松元家ではこれとは別に少なくとも3名から桑の葉を390貫350匁(約1464㎏。検算では394貫350匁=約1479㎏)買っており、自家で栽培する桑だけでは足りなかったことが分かります。
6月10日・11日・13日には、出来上がった繭を取りましたが、繭の産出量は67貫280匁(約252㎏)でした。このうち約1割にあたる6貫020匁(約23㎏)は玉繭(2頭の蚕が一緒に1つの繭を作ったもの)でした。
また、明治36(1903)年の「桑葉摘入貫数日記」によれば、同家では1番蚕(春蚕)、2番蚕(夏蚕)、3番蚕(秋蚕)の年3回蚕を育てています。明治37年(または38年?)には、1番蚕(春蚕)で「角又」という品種の蚕を育てています(「明治三拾七年度桑摘入日記」)。
明治三十五年 桑葉摘入貫数日記 四月二十八日 松元養蚕場
四月廿八日 一弐百目 二本木道 四匁掃立 廿九日 十二匁掃立 三十日 一百二十目 屋敷 同 一弐百十匁 二本木 同 一三百二十目 屋敷 五月壱日 十六匁掃立 一三百五十目 南辻 二日 一弐百六十目 屋敷 同 一壱貫三百目 浜道 三日 一壱貫目 同 四日 一三百四十目 浜道 同 一五百五十目 柳 六日 一七百五十目 屋敷 同 一八百目 同 七日 一六百七十目 街道 廿八日掃立桑付ス
三十五年繭産額 十日一弐貫百五三.三 一三貫百五十目 一弐貫二百三十目 二.四 一弐貫二百三十目 二.四 一壱貫六百三十目 一.八 一五百七十目 .七.三 一壱貫八百八十目 二.〇五 一弐貫百三十目 二.三〇 一壱貫五百三十目 一.六〇 一百七十目 一壱貫百目 一.二七. 一百九十目 出□ 已上二階西 一玉壱貫七百目 一.八七 __________________ 一壱貫五百三十目 一.七 中 十一日 一弐貫六百三十目 二.八 一壱貫六百三十目 一.□