データでみる山田荘村の養蚕
大正9(1920)年から昭和9(1934)年までの山田荘村の養蚕に関する統計をグラフにしてみました。
図1は繭の生産量、図2は繭の生産額、図3は桑畑の面積と養蚕を営む農家の戸数、を表しています。図1と図2では、春に飼育する蚕(春蚕)と、夏や秋に飼育する蚕(夏秋蚕)の内訳も示しています。
図1によると大正9(1920)年から昭和4(1929)年にかけて繭の生産量が年々増加していることが分かります。繭の生産量はこの9年間で約4倍に拡大しています。また、図3からはこの時期に養蚕家の戸数や桑畑の面積も増えていることが読み取れます。
一方で、図2によればこの期間中における繭の生産額は年によって高下しており、繭の価格の変動が大きかったことを示しています。特に大正14(1925)年は繭価が急騰しており、この影響を受けて養蚕を行う家がさらに増加したものと考えられます。
また、大正14(1925)年は夏秋繭の価格が上昇しており、これを受けて同年以降、夏秋蚕の生産が拡大していったことが読み取れます。
昭和4(1929)年は繭価が好況で生産量・生産額ともピークを迎えましたが、同年10月にアメリカで発生した世界恐慌の影響により、翌5(1930)年には日本でも昭和恐慌が起こり、繭価は大暴落しました。図1と図2の昭和4(1929)年と同5(1930)年を見比べると、生産量の落ち込みに比べ、繭価の下落幅が極めて大きいことが分かります。繭の1貫(3.75㎏)あたりの単価を計算すると、昭和4(1929)年は7.32円、同5(1930)年は3.59円となり、繭価が半値にまで暴落しています。
昭和6(1931)年以降も繭価は低迷が続いていますが、繭の生産量については大幅な減少はなく、桑畑の面積はむしろ増加しています。山田荘村では、農家の副業として養蚕に対する依存度が高かったので、養蚕から別の副業へと急に切り替えることが難しかったのでしょう。
大正の終わりから昭和の初めにかけて、養蚕業の浮き沈みが激しかったことがうかがい知れます。
※当コラムで使用した統計は、『山田荘村誌』(125~126頁)に収録されているものです。
『精華町史』本文篇(703~708頁、753~766頁)、『せいか歴史物語』(近代5「農村不況と第二次世界大戦」80~82頁)では、蚕繭を含む生産物全般の統計を分析しています。
図1.山田荘村における繭の生産量
図2.山田荘村における繭の生産額
図3.山田荘村における桑畑の面積と養蚕実戸数
※図1~3は『山田荘村誌』(125~126頁)より作成