せいか舎コラム

相楽郡における養蚕の歴史

カイコ・繭・蛾(松田弥三郎画)

カイコ・繭・蛾(松田弥三郎画)

個人蔵

明治初期 -導入期-

相楽郡は、養蚕の後発地で、江戸時代に養蚕はほとんど行われていませんでした。相楽郡で養蚕が本格的に開始されるのは、明治時代になってからのことです。

明治3(1870)年、菅井村(精華町)は木津川の洪水によって大きな被害を受けました。明治6(1873)年、同村の松田弥三郎は、復興のため、京都府から桑苗の貸与を受け、荒地に桑を植えて養蚕を広めようとしましたが、村人は「蚕を飼えばたたりが来る」という「迷信」を恐れて反対し、養蚕は広まりませんでした(「相楽の養蚕」)。松田自身は蚕を「試育」しましたが、養蚕の知識や経験に乏しく失敗したようです。従来の素地がない地域に養蚕を導入することは、多くの困難が伴いました。

明治中期 -普及期-

その後、京都府が養蚕の奨励に努めたこともあり、明治20年代になると相楽郡でも養蚕が普及し、生産者も増え、組合組織も整備されました。

先に触れた松田弥三郎は、明治19(1886)年に再び桑園を開き、明治22(1889)年には蚕を飼育し、京都府の養蚕伝習所を見学して養蚕の技術を学んでいます(「蚕児の初旅行」)。山田(精華町)では、明治22(1889)年ころ、久保藤兵衛と西念寺住職伊藤観了が、吐師(木津川市)や菅井の養蚕家から蚕種を分けてもらい蚕の飼育を開始したといわれています(『山田荘村誌』138~139頁)

明治21(1888)年の時点で、相楽郡の養蚕延戸数【注1】はわずか11戸で、桑園面積は4町余(約4ha)、収繭高は15石(約563㎏)でした(『京都府統計史料集』149頁)

明治19(1886)年、京都府内各郡に蚕糸業組合が設立されましたが、府の南部は養蚕家が少なかったため、山城国の各郡を区域とする山城各郡蚕糸業組合が設立され、綴喜郡八幡町に事務所が置かれました(『京都府蚕糸業組合五十年史』30頁)

明治23(1890)年には、山城各郡蚕糸業組合が北部と南部の2つに分離し、相楽郡は山城南部組合に属しました(『京都府蚕糸業組合五十年史』34頁)。明治26(1893)年、南部組合のなかに「相楽郡蚕糸業小組」(第五小組〔『木津町史』史料篇Ⅲ359~360頁〕)が設けられましたが、このころ相楽郡の養蚕家は30名ほどでした(「相楽の養蚕」)

明治後期から昭和初期 -拡大期-

明治30年代以降、相楽郡の養蚕は急激に拡大し、養蚕家戸数、桑園面積、繭生産量のいずれもが大幅に増加しました。特に、第一次世界大戦期(1914~18)には、生糸価格が高騰し、いっそうの拡大をみました。

相楽郡の養蚕延戸数は、明治41(1908)年には1933戸、大正8(1919)年には2694戸となっています。また、桑園面積は、明治41(1908)年が214町余(約216ha)、大正8(1919)年が311町余(約314ha)で、収繭高は明治41(1908)年が1388石(約52t)、大正8(1919)年が4万2372貫(約159t)と大幅に増加しています(『京都府統計史料集』149頁)

相楽郡の養蚕が拡大したことで、組合組織にも変化がみられました。

明治30(1897)年に山城南部蚕糸業組合から相楽郡が分離独立しましたが(事務所は木津町)(『京都府蚕糸業組合五十年史』37頁)【注2】、翌31(1898)年には山城北部・山城南部・相楽の各蚕糸業組合は解散し、山城国蚕糸同業組合に統合・改組されました(事務所は京都市)(『京都府蚕糸業組合五十年史』62頁)

その後、山城では養蚕が北部で衰退し南部で増進したことから、大正6(1917)年に山城国蚕糸同業組合は城南蚕糸同業組合と改称し、事務局を木津町に移転しました(『京都府蚕糸業組合五十年史』117、222頁)【注3】。さらに大正9(1920)年に城南蚕糸同業組合は、綴喜郡蚕糸同業組合(事務所は田辺町)と相楽郡蚕糸同業組合(事務所は木津町)に分離しました(『京都府蚕糸業組合五十年史』117、223頁)【注4】

明治後期から大正時代にかけて、京都府南部で養蚕が発達したのに伴い、信州(長野県)や丹波(京都府北部)などの大きな製糸会社が、繭の買い付けにやってくるようになりました。製糸会社の購繭所(繭の買い付けを行う出先施設)や繭乾燥場が、木津や祝園に建設されたことで、相楽郡は京都府南部だけでなく伊賀(三重県西部)・大和(奈良県)で産した繭の集散地となりました。そして、大正9(1920)年には製糸工場が木津に建設されるまでに至りました。

昭和初期以降 -不況・縮小・終焉期-

しかし、世界恐慌の影響を受け、昭和5(1930)年には生糸・繭の価格が暴落し、相楽郡の養蚕は大きな打撃を受けました。昭和7(1932)年になると各郡の蚕糸同業組合は解散し、代わって各郡に養蚕業組合が置かれました(『京都府蚕糸業組合五十年史』167頁)

昭和16(1941)年に太平洋戦争が始まると、それまで最大の生糸輸出先であったアメリカへの輸出が途絶え、繭や生糸の生産は急減しました。たくさんあった桑園も食料増産のため、多くは畑地とされました。

戦後になり、養蚕が再開されましたが、精華町域では一部の養蚕家にとどまりました。精華町内では昭和40年代に数戸が養蚕をおこなっていましたが(『京都府統計史料集』150頁)、今ではその姿を見ることはできなくなりました。


【注1】延戸数とは、春蚕、夏秋蚕別に飼養戸数を合計したもの(同一農家が同じ年に春蚕、夏秋蚕を2回以上飼った場合、別の戸数として数える)。
【注2】「日出新聞」(『木津町史』史料篇Ⅲ368頁)には、明治29(1896)年2月に相楽郡組合の設置を可決したとある。
【注3】松田弥三郎「相楽の養蚕」および『山田荘村誌』140頁は、城南蚕糸同業組合を綴喜・相楽両郡の組合とする。また、『山田荘村誌』140頁は、大正7(1918)年のこととする。
【注4】『山田荘村誌』141頁は、大正12(1923)年のこととする。