せいか舎コラム

松田弥三郎が描いた蚕糸業の発展

菅井の松田弥三郎(1853~1936)は、明治時代に祝園村長・相楽郡会議員などを勤め、地元の農業振興や教育に尽くした人物で、養蚕の普及や発展に力を注ぎました。

松田はさまざまな地域社会の動向や自身の体験を数多くの著作(手書きの未刊行本)にまとめていますが、文章だけではなく絵を交えて視覚的に親しみやすく述べている点に特徴があります。

松田の著作には養蚕や製糸について取り上げたものがあり、明治・大正期の相楽郡における蚕糸業の歴史を知る上で重要な資料となっています。


① 松田弥三郎著「蚕児の初旅行」(こかいのはつたび)

明治22(1889)年/個人蔵

明治22(1889)年に松田弥三郎が京都の養蚕伝習所や製糸場を見学し、養蚕の技術を学んだときの覚え書きです。

後半には、当時、松田家が栽培していた桑の葉の拓本が収められており、貴重です。自桑・鼠返・細枝・高助・市平・九文龍・小牧・魯桑といった品種が栽培されていました。


② 松田弥三郎著「相楽の養蚕」

大正9(1920)年/個人蔵

松田弥三郎が晩年に自らの養蚕の軌跡を振り返った著作です。自らの体験を踏まえながら、明治・大正期の相楽郡における蚕糸業の歩みをまとめた貴重な文献です。

以下、松田が「相楽の養蚕」に描いた挿絵をたどりながら、相楽郡内に設立された乾繭や製糸の工場について紹介します。

なお、挿絵はありませんが、本書によれば、相楽郡最初の製糸工場は、上狛村(木津川市)に城野氏が設立した製糸場でした。精華町域からもこの製糸場へ繭を売りました(『山田荘村誌』139頁)。しかし城野製糸場は、繭乾燥場から火災を起こし操業を中止しました。


木津町に佐屋川製糸(愛知県)の購繭所(繭を購入する出先施設)と繭乾燥場ができましたが、明治40(1907)年、火災に遭い、撤退しました。


明治42(1909)年、祝園駅南側に富国館製糸所(長野県)の購繭所と繭乾燥場が建設されました。実現には至りませんでしたが、富国館が祝園に製糸場を設置する計画もありました。

また、同駅前には近江製糸(滋賀県)の購繭所も開設されました。


大正2(1913)年、木津町に郡是(ぐんぜ)製糸の繭乾燥場が建設されました(昭和25〔1950〕年に閉鎖〔『京都府蚕糸業史』644頁〕)。

このように、明治後期から大正にかけて相楽郡で養蚕が急拡大したことを受け、木津や祝園に各社の繭乾燥場が設けられ、相楽郡内はもちろん、綴喜郡や伊賀(三重県)・大和(奈良県)北部からも繭が集積され、乾燥処理を行った後、府内外の製糸場に運ばれました。


大正9(1920)年、木津町に城南製糸株式会社の製糸場が開設されました。第一次世界大戦期の生糸の好況を受けて、養蚕がさかんとなった京都府南部にも製糸工場が建設されたのです。

城南製糸は、当初の計画通り、同年中に綾部製糸株式会社に合併されました。綾部製糸は、経営悪化により、昭和3(1928)年に新綾部製糸株式会社に引き継がれましたが、昭和12(1937)年、木津の工場は閉鎖されました(『京都府蚕糸業史』653~662頁)