相楽木綿
相楽木綿(さがなかもめん)は、明治時代から昭和前期にかけて、京都府相楽郡(そうらくぐん)相楽村(さがなかむら)〔現在の木津川市相楽(さがなか)〕を中心として生産された手織りの綿織物(めんおりもの)です。大和機(やまとばた)を用いて織られました。
色糸を用いた縞(しま)と絣(かすり)を組み合わせた柄(がら)が特徴で、藍(あい)染めの紺地に色糸の縞や絣がよく映え、はなやかな印象をあたえます。
相楽木綿は日常着や野良着(のらぎ)に用いられる身近な織物でした。かつては娘が嫁ぐとき、嫁入り道具として相楽木綿を持たせることもありました。
当時、相楽村には木綿の織元(おりもと)〔製造元〕がおり、周辺の村々〔現在の木津川市・精華町・京田辺市〕の農家の女性に糸をわたし、農閑期に織ってもらい、織り賃を支払いました。
相楽木綿は、太平洋戦争期にはほぼ生産が途絶え、戦後長らくほとんど忘れられていました。しかし、1980年代に京都府立大学の学術調査がおこなわれ、平成16(2004)年に京都府立山城郷土資料館で特別展「相楽木綿」が開催されたことを契機に、相楽木綿はふたたび注目されるようになりました。
平成17(2005)年に結成された「相楽木綿の会」は、現在、けいはんな記念公園の水景園観月楼にある相楽木綿伝承館を拠点に、相楽木綿の製織技術の復元・伝承・普及活動にとりくまれています。
このような調査や活動をふまえ、令和2(2020)年3月に相楽木綿は京都府指定無形民俗文化財に指定されました。
相楽木綿伝承館 【場所】けいはんな記念公園 水景園観月楼(地階) 【住所】京都府相楽郡精華町精華台6丁目1番地 【HP】https://keihanna-park.net/guide/saganaka-momen/
相楽木綿の会の会員が製作したさまざまな柄の相楽木綿
体験者の声
嫁入りと相楽木綿
私は、昭和35(1960)年に28歳で現在の木津川市加茂町から精華町にお嫁に来ました。
結婚するとき、母親が別にブリキの衣装缶を持たせてくれました。
衣装缶のなかには、木綿の反物と手甲(てっこう)の型紙が入っていました。
嫁ぎ先で野良着などが必要になったとき仕立てることができるようにと、母がこっそり用意してくれたのです。
紺の反物は手甲を作るためのものでした。
衣装缶には相楽木綿の反物がいくつも入っていて、そのほとんどを使い切りましたが、ひとつだけが未使用のまま蔵に残っていました。それが写真の反物(整理番号1861)です。
そのほか母の手織りの反物、また久留米絣などたくさん入っていました。
相楽木綿は新しいうちは着物として使い、古くなったらモンペや前掛けなどに仕立て直して使いました。
相楽木綿はよそ行きの着物ではありません。
相楽木綿の生地は厚いですが、夏場は涼しいです。
第2次世界大戦が終わって数年間は食糧難の苦しい時代で、着物を米と交換する人も大勢いました。大阪・奈良・京都など町から担いで来られました。
私の実家は農家だったので、戦後の食糧難の時代に人から頼まれて買った反物がたくさんありました。そうした反物のひとつがこの相楽木綿で、後年、私が結婚する時に母が持たせてくれることになったのです。
加茂町の実家では倉庫の2階に機織りの部屋があり、そこで母が木綿を織っていました。
機織りの部屋は8畳ほどあり、絣の糸を並べるとき、糸の順番がぐちゃぐちゃにならないよう、母は子どもをこの部屋に入れないようにしていました。暇ができる冬場に機織りをしていました。
相楽木綿の会が復元した「藍地色糸経縞経緯絣」(『相楽木綿10年のあゆみ』14頁2段目)(参考写真)のような柄を、母も織っていた記憶があります。
母は嫁入りのときに機織りの道具を持ってきました。また、祖母(母の実家の母)も機織りをしていました。
戦争でモノがない時代には、白い布や紺色のバッチ、膝までの法被みたいなものを家で織っていました。
絣を作るのは、初め経糸を枠にかけ、それから絣の寸法を極め、そこを白糸で固く巻く。それが終わったら枠から外し、今度は緯糸を枠にかけ、先の経糸のように絣の寸法を極め、固く白糸で巻く。終わったら枠から外して紺屋へ持って行って染めていただく。糸が染め上がったら何日間かけて機織りで織ります。
(2018・2021年に、中村佳子さんから聞き取り)
嫁ぐときに母が持たせてくれた相楽木綿
整理番号:1861 採集地:植田
参考写真:相楽木綿の会による復元品「藍地色糸経縞経緯絣」(母もこのような柄を織っていた)
相楽木綿の会所蔵、京都府立山城郷土資料館提供(『相楽木綿10年のあゆみ』14頁2段目掲載)
参考文献:藤田芳津「野良着に魅せられて―民俗と衣生活―」
女子の嫁入り前は必ず自分の家のハタヤで織った紺がすりを持参した。「相楽木綿」は近くでは地方の名産とされていたようである。